ブログのタイトルを変えてみました。
もともと介護士としての奮闘記を綴ろうかと思っていましたが、読書の色も強くなりそうなので、少し路線変更しようと思った次第です。
さて、今回読んだ作品は、第155回芥川賞を受賞した、「殺人出産」です。
今よりも何十年か先の未来。代理出産によって子どもを10人出産すれば、1回の殺人の権利が認められる時代。主人公「育子」の姉は、若くして「産み人」となっていました。はじめは姉の選択に否定的だった彼女も、いつしか姉の選択を受け入れいくようになっていきます。その反面、「産み人」として人生を終えるかもしれない姉の姿をどこかで受け入れがたく思っている節も彼女にはあるようでした。
そんな中、「育子」は最近会社に入ってきた同僚の「早紀子」から、「ルドベキア会」なる組織に所属していることを伝えられ、「産み人」システムに対し、否定的な考え方を聞かせれます。更に「早紀子」は、「育子」の姉はシステムの犠牲者であり、世界を正しく戻すべきだと主張するのでした。2つの相容れない考えの中で、「育子」はどのような結論を出すのでしょうか。
この作品のポイントは、殺人が単なる個人的なエゴなのではなく、社会的役割を持っている点。そして「産み人」と殺される対象である「死に人」が人類の生存の礎の対象であり、作品の中で尊く扱われれている点にあります。つまり生まれてくる人数と殺せる人数は兎も角として、物理的に生と死が等価値なものとして扱われているといっていいでしょう。
とは言え、私達の中に、こうした倫理観を受け入れられる者はそう多くない筈です。何故なら、「私達の社会」では、殺人はどこまでいっても殺人に他ならないから。つまりどれだけ違和感、拒否反応示そうとも、そうした感覚は絶対的なものではなく、社会との相対的なものに過ぎないからです。
例えば、私は子どもの頃、母方の祖母に、将来は芸能人のように髪を染めてみたいという旨を伝えましたが、祖母は「親から貰った髪を粗末に使うような真似をして」と毒づいていました。ですが昨今、そのように毒づく老婆など存在するでしょうか。今や老若男女が髪を染めている時代です。男性の化粧、ジェンダーの問題などもそうでしょう。社会が受け入れさえすれば、そうした感覚すらも変化していってしまうのです。
他方、作中では虫のスナック菓子が流行っている描写が度々描かれています。食料需給に困難が生じている描写がない為、それらは人間の娯楽として食べられている様子。また、そればかりか、本作では姉は度々虫を殺す習性があったことも描かれていました。生物種が違うとは言え、「いのち」を考える場合、それらは誰がどのようにその価値や扱いを決めているのでしょうか。
このように、数字や法律の上で「いのち」を図るような試みがある一方で、その枠から外れた「いのち」については、個人の裁量に委ねられるところがあります。
作品の顛末、姉は「死に人」にある人物を選び、「育子」はその手伝いを知ることになります。2人がその人物のお腹を割くと、そこから胎児が出てきました。2人はこの胎児に対し、自分たちがどのような態度を取るべきか、議論をはじめます。無論この事実は2人しか知らず、2人がこの事実に対し、目を瞑ることもできるようです。そして作品世界の殉教者とも言うべき姉は、この矛盾を自身が再び「産み人」となることで解消していくことにしたのでした。

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