長かった寒波も去り、心地よい太陽の日差し浴びれるようになりましたね。
私などは年甲斐もなく、仕事終わりにスマホを取り出し、モンスターハンターNOWという、ポケモンGOのようなゲームをやっているわけですが、春の到来にホッとするような気持ちで楽しんでいます。
閑話休題。今回は、恐れ多くも、国語の教科書にも掲載されている「山月記」を解剖していきたいと思います。最後まで楽しんで頂けると幸いです。
できるだけ分かりやすく書いたつもりなので、楽しんで頂けると幸いです。
あらすじ
唐の時代、隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は、若くして難関の試験を突破する秀才でしたが、他人には心を開かず、身分の低い役人でいることに我慢なりませんでした。そこで彼は山に籠り、詩作で成り上がろうとしたのです。
ところが生活は窮困するばかりで、詩の道にも絶望し、焦った李徴は、再び役人に戻ったのですが、同期の者は彼よりも高官となっており、彼らの元で働かなねばならぬことが更に彼を傷つけました。そしてある時は発狂し、行方をくらましてしまいます。
その翌年、陳郡(ちんぐん)の袁傪(えんさん)という役人は、夜中に人喰い虎に出くわしました。が、その虎の声は、なんと袁傪の友である李徴のものだったのです。実は李徴は自身でも分からぬうちに虎になってしまい、人間の心と虎の心とを行き来しているのだといいます。しかし、徐々に人間でいられる時間も少なくなってきている様子。このままでは身も心も虎となってしまい、人間ではなくなってしまうのだというのです。李徴はそうした運命を受け入れており、友人である袁傪に、人間として、最後の頼みを述べるのでした。それは自身が詠んだ詩を袁傪に託し、後世に伝えたいというものです。ですが、袁傪はそれらの詩に非凡さを感じながらも、第一流の作品には欠けるものを感じていました。
詩を詠み終えると、李徴は自身の人間だった頃を振り返りはじめます。人間だった頃の彼は、人との交流を避け、高慢な態度をとっていました。また、そうかと思えば、進んで先生に教えを請うこともせず、詩の友達をつくり切磋琢磨することもありませんでした。それらを彼自身、「臆病な自尊心と寛大な羞恥心」だと断じ、自身の才能を喰い潰し、それらを飼い太らせてしまったが故に、虎になってしまったのだというのです。
李徴は自身について話し終えると、最早虎となるばかりの身となった自身と別れる時が来たと言い、袁傪が丘の上に着いた頃、きた道を振り返ると、遠くの叢から一匹の虎が月を仰いで二、三度吠えて、叢の中へと消えていったのでした。
解剖
この作品において最大の疑問は、「李徴はなぜ虎になったのか」ということでしょう。彼自身はこれを自身の、「臆病な自尊心と寛大な羞恥心」にあると分析しています。より具体的には、
自身の故郷で、鬼才と持て囃されていた自身に芽生えた自尊心を他者に傷つけられるのではないかという臆病な性質。
また、自慢の詩も、先生や友に批判されるのではないか。そして同僚からの指摘からの辱めにあうのではないかといった、尊大な羞恥心。
などといったものでしょう。それらを抱え、太らせていくうちに虎になったのだと考えている訳です。
ところで、虎になるとまではいかずとも、こうした失敗によって、孤立感を感じ、世間と隔たれるといった事は、私達の身の上にもあるのではないでしょうか。
かく言う私も、李徴のような心情に身に覚えがないわけではありません。私にとって文章がそれにあたります。小学校の頃、苛められっ子であった私は、国語の先生に読書感想文を褒められたことをきっかけに、文章に興味を持ちはじめました。
しかし、そこから何か行動したのか言えば、文章の練習も禄にせず、自身の行動や失敗を友達に誂われるばかりの毎日を過ごしてるだけでした。そしてその心中では、「ぼくはこいつ等とは違う。文才に秀でているのだ」と、しがみついていたのでした。寛大な羞恥心は定かではありませんが、自尊心は充分持ち合わせていました。
こうして私は、学校生活を他の生徒と一緒に過ごしながらも、心のどこかは孤独で、自身をさらけ出すことについてはこと臆病になっていました。
そうして、自身の思い込みが間違っていたのだと気づいたのは、大学での研究発表のときでした。当時研究のリーダーを務めていた先輩から、「こんな文章では世の中に出ることは叶わない。本気でやる気があるのであれば、勉強しなければならない」と言われたことがきっかけです。実力も実績も自分なんかよりも遥かに勝っている先輩に指摘されて、すっかり私は反論する気どころか、心のなかで平伏するしかありませんでした。
結論
私の恥の話はこのぐらいとして、物語に話を戻すと、虎という表現は単なる比喩であり、現実の私達の中にも、こうした自尊心、羞恥心を抱えているばかりに、人と隔たって生きいる人々は少なくないのではないでしょうか。
ですが、いつまでの隔たりを感じながら生きなければならないのかと言えば、そうではありません。李徴が振り返っているように、自身の弱さに気づき、さっさと受け入れてしまえば良いのです。それが難しいという批判もあるでしょうが、だからこそ、人の中で揉まれなければならないのでしょう。
もし私の文章を読んで、踏みとどまっている方がいるのであれば、李徴のように、虎にならぬ前に、勇気の一歩を踏み出してはいかがでしょうか。私のその道の半ばです。
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